コンテンツにスキップ

講話

20250421 全校朝礼

今週の言葉(4/21~)
「新しい命に生きるために」(ローマ6:4)

 おはようございます。
 昨日は「復活の主日」、イースターでした。世界中のキリスト者がこの日を祝い、感謝の祈りを捧げました。本校でもカトリック研究会の春の集いが行われ、イースターのお祝いをしましたが、そのミサ中に、理科の兵藤先生が洗礼を受けられました。洗礼式は、66期生が様々な準備や協力をしてくれ、また、姉妹校4校の研修スタッフや庚午カトリックセンターの皆様も駆けつけてくれ、参列者全員がお恵みをいただけた暖かなひと時を過ごすことができました。改めて、兵藤先生、おめでとうございました。

 さて、今週の言葉は、パウロが書いた手紙の中の一節、ローマの信徒への手紙の一部を選びました。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4)

 「新しい命に生きるため」。これが今週の言葉です。
 この「新しい命」という言葉、ちょっと詩的すぎて、なんだか遠いもののように聞こえるかもしれませんね。
 でも、実はこれは、私たちの日常のすぐそばにあるメッセージだと、私は思っています。

 キリストの復活は、ただ「すごい奇跡が起きた」という出来事ではありません。
 それは、「絶望の中でも希望は失われない」「過去がどうであれ、私たちは新しく生き直すことができる」ということを、神が私たちに示してくださったしるし、と私は考えています。
 皆さんの中にも、「うまくいかなかった」「誰かとぶつかった」「なんだかやる気が出ない」——そんな日があると思います。でも、復活という聖書の話が教えてくれるのは、「そこで終わりではない」ということです。

 先日、70期生の入学式で、私は「60期生の入学を…」とハレの日の大切なスピーチを新入生や保護者、全教職員の前で間違えてしまいました。70期生の皆さん、あの時はごめんなさい。ここでお詫びさせて下さい。学院生の皆さんにとってはもしかしたら、大したことではないように聞こえるかもしれませんが、校長として初めて臨んだ大切な式典で、あり得ないミスをした私は、穴を掘ってしばらくそこで体育座りをしていたい気持ちでいました。ところが、翌日の始業式の日に、弟を新入生として持つある上級生が「先生、昨日、新入生を60期生って自信を持って言い切っていましたね」と満面の笑顔で私に話しかけてきてくれました。その笑顔を見た時、私は理由なく救われ、「よし、新しく一歩踏み出すぞ」という気持ちになりました。
 正直、この程度の話以上の失敗・挫折を皆さんは当然、経験してきていると思います。

 失敗があったとしても、悲しみや挫折があったとしても、そこから「新しい命」に歩み出すことができる…そんなメッセージが今週の言葉「新しい命に生きるために」には込められていると思います。
 学院の生活も、今年度が始まってまだ間もない時期。新しいクラス、新しい目標、新しい仲間。でも、それらをただ「新学期だから」と受け身で受けとるのではなく、自分自身が「新しい命に生きる」つもりで、主体的に歩み出してみてほしい、と思っています。
 昨日までの自分ではなく、今日から始まる「新しい自分」。小さな一歩でも、それが復活のいのちにふさわしい歩みになると、私は信じています。それでは、今週も、学院生活を一歩ずつ大切に歩んでいきましょう。