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講話

250414 全校朝礼

今週の言葉「渇く」(ヨハネ19:28)

 今週はキリスト教会では、聖週間とされています。四旬節の最終局面において、イエスの復活を準備する大切な期間です。聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭、そして復活祭(イースター)と続きます。
 キリスト教では、私たち人間は皆、罪びとである、と考えます。そして、イエスがご自身の命を十字架上に捧げたことで、私たちは救われた、そして、死んだはずのイエスが、十字架刑から三日目に何と復活して、方々で姿を見せた、とされています。
 一連の話は、皆さん中高生が理解するには、とても難しい話だと思っています。それゆえ、これらの話を今すぐに信じなさい、と私は思っていません。キリスト教の基本的な考え方として、知っておいてください。ただ、これらの話が今に生きる私たちにとって、本質的にどのような意味を持つのか、という問いを持つことは、本校で生活するにあたっては、大切なポイントと思います。

 聖週間のうち、聖金曜日は、イエスが十字架上で息を引き取ったことを偲ぶ日です。イエスは金曜日の夕刻に息を引き取ったとされ、それゆえ、本校でも伝統的に聖金曜日は、授業は午前中のみ、午後は下校、イエスの死に思いをはせることになっています。

 さて、イエスが生きたユダヤ人の世界は、今の社会と比べても、極めて差別や偏見、暴力や今でいうハラスメントに溢れた時代でした。その時代にあって、イエスは「あなたが何人であれ、どんな職業であれ、どこに住んでいようと、あなたはとても大切で、かけがえのない存在ですよ。神様は私を大切にして下さる。そして、私もあなたをとても大切にするから、あなたも周りの人をとても大切にして下さいね」というメッセージを放ち続けました。ところが、これが、時の権力者や既得権益を持った人たちの間では不都合なメッセージと受け取られ、最終的にイエスは捕らえられ、死刑宣告されます。屈辱を受け、唾を吐きつけられながら、十字架刑に処されます。しかも、自分を信じていた弟子たち全員からも見捨てられ、肉体的にも精神的にも一人ぼっちの死でした。そのイエスが死の間際に口にした言葉が、今週の言葉「渇く」です。

 極限の状況の中で、イエスは何に渇いていたのでしょうか。実際にのどが渇いていたのでしょう。しかし、それ以上にこの「渇く」という言葉は、「切望する」「心の奥からやりたい」という最後の願望を示していた、とされます。肉体的に精神的にも絶望的な状況の中で、イエスは、自分のことではなく、周りの人々の幸せや、人々に愛を伝えることに渇いていた、と考えられています。自分のことしか考えられない状況で、人の幸せを願うことが、私たちは出来るでしょうか。聖金曜日…そうした自分自身の問いをイエスの十字架上の死と重ね合わせて考えてみて下さい。

 そして、もう一つ。皆さんは何に「渇いている」のでしょうか。
 『スラムダンク』という漫画作品の中に、三井君という人物がいます。三井君は中学から全国的に有名なバスケの選手でしたが、高校入学後、膝を怪我し、何一つうまく行かないうちに、バスケから離れ、不良軍団に身をおくことになりました。そして、あろうことか、自分の所属していたバスケ部に嫌がらせを始めます。ところが、いつもの通りバスケ部に嫌がらせをしていたある時、恩師である安西先生と目が合った瞬間に、三井君は泣き崩れます。そして思わず出てきた言葉が…「安西先生…バスケがしたいです」。不良軍団に身を落とし、やさぐれていても、それでも三井君は、やっぱり「バスケがやりたかった」のですね。バスケに渇いていたのでしょう。

 イエスは「愛に生きること」に渇いていいました。皆さんが本質的に心の奥底からやりたいこととは、何でしょうか。大人に言われるままにやらねばならないことをやらされている…そんな日常が続いていませんか。また一方で、ゲームやスマホ、漫画の乱読は、本質的な喜びでしょうか。今週は聖週間であるとともに、通常の日常生活がいよいよ本格的にスタートします。自分が本当に「渇いている」ことは何か、心の奥底からやりたいことって何だろうか…そうした問いとも向き合う1週間であることを願っています。