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講話

12月6日 朝礼

 おはようございます。
 今朝は、最初に奉仕委員から報告があります。
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 では話を続けます。
 先週から廊下には「見えないものに目を注ぐ」という聖書の言葉を掲げてもらっています。これは、パウロがコリントの信徒に書いた手紙に出てくる「わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」という個所からとった言葉です。パウロはこの後に「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と書いています。だからここでは、私たちの能力ではなかなか理解できない「永遠なるもの」のことを「見えないもの」と言っているのでしょう。「目を注ぐ」とは、そのことを肯定的な気持ちで静かに考えるということです。
 もちろん「見えないもの」というのを、もっと広い意味で考えてもいい。目に見えている現実の奥に真実が隠れていることはよくあるし、人の思い遣りや優しさに気付かないということもありがちです。そういった肉眼では見えないものに目を注ごうとすることは、大切なことです。

 そのどちらの意味でも見えないものに目を注いで懸命に生き続けた人の1人として、永井隆博士について、最近読んだ書物から引用しながら話したいと思います。原爆投下直後の長崎で、自らも被爆しながら、医師として献身的に救護活動を続け、また「長崎の鐘」などの著作でも知られる永井隆の名前を、みんなも知っているでしょう。

 開業医の息子として松江で生まれ育った永井は、1928年に今の長崎大学の医学部に進みました。その頃の永井は、当時の流行だった唯物論的思想に傾倒し、人間も結局はモノに過ぎず、死ねば灰になるだけの存在で、人間の霊魂の存在など単なる迷信であると考えていました。長崎には多いクリスチャンのことは「古い信仰に騙されている」と馬鹿にしていました。
 ところが大学3年のときに母親が脳溢血で倒れ、永井は急いで実家に戻って臨終を迎える母と対面しました。そして死にゆく母の目を見たときに、何の疑いもなく母の霊魂はある、その霊魂は今、肉体を離れ去るが、永遠に滅びることはないと直感したと、永井自身が書いています。永井はそれまで、唯物論に染まりながらも、どうせ死んで灰になるのになぜ生きているのかという根本的な疑問が心の奥にあり、他にも唯物論では解決できない人生の謎が多いと感じていたそうです。母の最期のまなざしは、そんな永井が目に見えない世界に目を注ぐきっかけになりました。そして霊魂の宿る人間を看る医者になろうと決意しました。

 大学を卒業した永井は、放射線医学の研究の道に進みました。戦争が激しくなってからは、大学で研究や治療に従事しながら、無医村での無料診察や貧しい家庭への訪問治療にも精力的に出かけましたが、やがて過労と放射線の影響で、自身も白血病に罹り、余命3年と宣告されます。
 その2か月後に、長崎に原爆が投下されました。最愛の奥さんを亡くし、自身も重傷を負いながらも、研究者として原爆の報告書を作成し、また遠方まで被爆者の救護や治療に駆け回りました。しかし白血病に侵された体は日に日に衰え、翌年の7月には病床に伏す身となってしまいます。
 それでも腕と指はまだ動くと言って、残された人生の時間を書くことに費やすことにしました。実際に14冊の本を書き、戦争の愚かさを伝え恒久平和を訴えるとともに、苦しんでいる人々を励まし力づけました。書くことができなくなっても、人の話を聞くことはできる、人を慰めることもできる、それができなくなっても祈ることができると考え、そのように自分の命を使い、被爆から6年後、43歳で亡くなりました。

 永井博士がこのように最後まで前向きに生き続けたのは、誰もが皆、価値のある者として生かされており、だから一人一人の人生には果たすべき使命があるという信念を持っていたからです。
 百聞は一見に如かずというように、目に見えるものをしっかりと見ることはもちろん大切です。永井博士も、現実をしっかりと見ていました。と同時に見えないものに目を注ぐことで、ありのままの自分の価値に気付き、自分の人生を豊かにするということを、永井博士は示しているように私は思います。私たちも、「見えないものに目を注ぐ」ことを心掛けたい。本当に大切なものが見えてくるのではないかと思います。

 話は以上ですが、最後に一言、期末試験まであと3日です。きちんと準備をして臨んでください。