コンテンツにスキップ

講話

6月18日 朝礼

おはようございます。
 一昨日の土曜日は、オープンスクールがありました。多くの方が来校されましたが、みんなの協力もあって、皆さんに満足していただけるようないい雰囲気のものになりました。特に当日手伝ってくれた生徒のみんなは、よく働いてくれました。ご苦労様でした。

 今朝はまず、今月初めの県総体で優勝し、インターハイ出場を決めたテニス部の表彰をします。
 
 ・・・・・・

 では話を続けます。
 2週間前から廊下には「高慢には軽蔑が伴い、謙遜には知恵が伴う」という言葉を掲げてもらっています。旧約聖書の中にある「箴言」といって、道徳上の格言や教訓が書かれた書物に出てくる言葉です。3000年前の古代イスラエルのソロモン王の言葉とも伝えられているそうですが、そこまで古く遡らなくても、新約聖書にも、高慢であることを戒め謙遜でありなさいと教える言葉はよく出てきます。それはまた別の機会に話すとして・・・

 高慢とは「自分が優れていると思い上がって人を侮ること」「おごり高ぶって人を見下すこと」と辞書にあります。高慢な態度というのは、自分では分からないかもしれないけど、言葉や振る舞いの端々に表れるので、周りの人には分かり易い。気付いていないのは自分だけということで、かなり恥ずかしいことです。高慢な態度で周りの人を軽蔑していると、自分自身も周りの人から軽蔑されることになる、「高慢には軽蔑が伴う」とはそういうことでしょう。
 一方謙遜とは「控えめな態度で振舞うこと」「自慢したり高ぶったりしないこと」と辞書にあります。「控え目な態度で振舞う」というと、相手に自らの評価を低く見せることで、自分の立場を良くしようとしたり、後からの評価を高めようとしたりすることがあるかもしれません。だけど本当は、相手を敬う気持ちが控えめな態度になって表れるのが、本来の謙遜でしょう。聖書が教える謙遜は、相手は神様です。その前で自分は小さく弱い人間であることを認め、神により頼む態度のことをいいます。

 みんなにとっては神様が相手であってもなくても、今の自分があるのは自分自身の努力の積み重ねもあるが、それだけではなく、色々な人の助けがあってのものだということを、素直に認めて謙虚な気持ちで振舞う、こんな振る舞いが聖書のいう謙遜に通じるのだと思います。実際どんな分野でも、本当に一流といわれる人は、自分の技術や能力を自慢したり、高ぶって人を見下したりはしません。周りの人の支えを感謝しながら、さらに高いところを目指そうとします。

 「謙遜には知恵が伴う」という知恵とは「自分とは何者か」「自分は何のために生きているのか、どう生きるか」といった問いに自分なりの答えを見つけるために、人それぞれに与えられる知恵のことだと私は思います。もちろんこの答えはすぐに見つかるものではありませんが、それでも捜し求めることが大切です。そのための知恵です。
 高慢には軽蔑は伴っても、そういうより善く生きるための知恵は決して伴わない。そのことをまずはよく分かっておきたい。そして「謙遜には知恵が伴う」という言葉をよく味わいたいと思います。