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講話

5月14日 朝礼

おはようございます。
 中間試験まであと1週間となりました。しっかりと準備をしなさい。

 先週の月曜日は雨で全校朝礼がなかったので、今朝は先週話すつもりだったことを話します。
 5月の連休の直前に、本校の34期卒業生でJAXAの佐伯さんの講演会がありました。中には難しくてよく分からないところもありましたが、壮大なロマンの裏に、科学技術の粋を集めて知的好奇心を満たしたいという強い思いがある人間味の溢れるプロジェクトだということが感じられ、とてもいい講演だったと思います。
 ただ、あとで本人から聞いた話ですが、最初に自己紹介をしているときから居眠りをしている生徒がいて、どうしてやろうかと思ったそうです。私も講演の途中何度かみんなの方を見たときに、だらしない姿勢で居眠りをしている生徒の姿が大変気になりました。授業中も同じだけど、睡魔と戦う素振りも見せず堂々と居眠りをするというのは、自分には関係のない話を聞かされているとでも思っているのかもしれないが、不遜な態度で、話をしている人に対して失礼です。私の席から見えたのは高2や高3の生徒なので、一層情けない。折角の貴重な話を聞く機会を自分から放棄し、何かしら学ぶチャンスを逃したということです。

 それはさておき、講演でも話があったように、佐伯さんは高校生になって将来の進路を真剣に考える中で、航空宇宙工学に携わりたいという思いが強くなっていきました。そして、その夢を実現できる大学を目指して勉強をし、大学、大学院と進学して専門的なことを学び、今、その第一線で活躍しています。世間の注目を集めるような活躍をするかどうかはそんなに大きな問題ではありませんが、ずっと努力をして夢を育て、実際にその分野で自分の能力を最大限に生かし、毎日生き生きとやり甲斐を感じながら仕事に打ち込んでいるというのは、素晴らしいことです。
 佐伯さんは、あるインタビュー記事の中で中学生や高校生に対して「私も中学・高校の頃『この勉強をやって、将来何の役に立つのだろう』と疑問に思ったことはありますが、様々な分野を幅広く学ぶことは絶対に損にはなりません」と仰っています。よく聞く言葉かもしれませんが、専門外のことでも瞬時にそれなりの判断をしながら、多くの人と協働してプロジェクトを進めなければならないという経験から仰っているのでしょう。
 確かに、学院在学中の佐伯さんは、まじめによく勉強をしたけども、クラブ活動や学校行事にも熱心で、仲間にも恵まれ、毎日の学校生活の中で様々なことを学んでいたと思います。みんなもそのような学校生活を送りながら、自分のやりたいこと、自分の進むべき道を真剣に探してもらいたい。

 今月は祈りの月ということで、先週から廊下には「主よ、私の道を教えてください」というあるイエズス会の司祭が書かれた祈りに出てくる言葉を掲げてもらっています。今も言った「自分らしく生き生きと進むことのできる道を示してください」という祈りです。「主」とは、宇宙万物の創造主のことで、天と地の一切のものを治めておられる方という意味です。そして「イエス・キリストが私たちの主である」というのが、キリスト教の教えです。

 信仰とそんなに関わりのない人にとっては、祈りはあまり意味がないと考えるかもしれません。だけど、私は祈りを特別に宗教的なものと考えなくてもいいと思っています。たとえば、自分の力でだけでは何ともならないようなことに直面したときに、何かに助けを願って祈りたくなることがあるでしょう。そういったことも含めて、祈りとは、喜びや悲しみ、感動や不安、感謝や赦しを求める気持ちなど、自分のありのままの思いを自分の心の中で正直に認め、それに対して語り掛けられる答えを受け取ろうとする対話です。その対話の相手は「神様」でも「私たちの力の及ばない大いなる存在」でもいい。ある人は「祈りとは自分の本心との対話だ」と言っています。そう考えてもいいと、私は思います。
 心を騒がせず、自分を飾らず、じっと沈黙の中にいると、普段はなかなか聞こえてこない何かが心に聞こえてくるものです。瞑黙も本来はそのような祈りの時間です。祈りは決して無力なものではない。祈りは、自分の中にある色々な可能性を目覚めさせ、生きるエネルギーになるものです。今月は毎朝聖堂で祈り集いがあります。朝のひと時を、生徒や先生の話を聞き、ほんの短い時間ですが沈黙の中で心静かに自分の祈りの時を過ごすという体験を、ぜひみんなにもしてもらいたいと思います。