新講堂・新聖堂竣工記念式典
おはようございます。
今日、このように、ご来賓の皆様をお招きして、新講堂と新聖堂の竣工の日を迎えることができることを、みんなで喜びたいと思います。
この建築計画が動き出したのは、今から5年前でした。どんな施設が必要か、どのような建物にするのか、色々な角度から時間をかけて検討が進められ、本格的に工事が始まったのは、1年半ほど前のことでした。
工事に際しては、生徒や関係者の安全はもちろん、授業や学校行事の妨げにならないように、最大限の配慮がなされました。また、建設用地が狭く工事のための十分なスペースがないということもあって、関係の皆様には大変なご苦労があったことと思います。
施工に当たってこられた竹中工務店広島支店の藤田敏郎支店長はじめ関係の皆様方、計画段階から常に貴重な指導、助言をくださった設計監修者の高垣健次郎様、館内を飾る幾つもの素敵なガラス作品を作ってくださったステンドグラス作家の志田政人様に、心から感謝を申し上げます。
また、この建築事業にご理解いただき、多くのご支援をくださった広島学院翠友会、翠江会の皆様、そしてイエズス会日本管区に、心から感謝を申し上げます。
さらに、広島学院事務局長の菅野正一先生のご尽力なしには、とてもこのような立派な講堂や聖堂の完成はありませんでした。菅野先生、ありがとうございました。
さて、この講堂に名前をいただいたペドロ・アルペ神父について、先日の始業式で少し紹介をしました。そこでも話した通り、アルペ神父と広島学院とを結びつける1つは、”men for others” という言葉です。
1973年に開かれたイエズス会学校の卒業生大会での講演で、アルペ神父は、「イエズス会学校の何よりも大きな目標は、他者のために生きる人間 ”men for others” の育成であり、イエズス会学校で受けた教育が、将来、世界における正義の要求に応えることのできるものでなければならない」と、おっしゃっています。
ここで言う正義とは何か、どのようなやり方で正義の要求に応えていくのか、みんなは、この学校で、様々な機会にそれを学んでいます。
そして、広島学院は、他のイエズス会学校には無いアルペ神父との特別な関係もあります。アルペ神父は、27年間というご自身のイエズス会司祭としての人生の半分を、日本で、日本のために捧げました。そのうちの12年間は、長束の修道院で働き、原爆も体験されました。多くの被爆者の治療、看護に献身的に努め、その後、原子爆弾の悲惨さを伝え、復興への協力と支援を求めるために、世界中を巡る旅を、4回にわたってされています。
こうした原爆投下後の様々な体験を通して、アルペ神父は、立場の弱い人の側に立ってより善い世界の建設に貢献する若者を育てるための学校をこの広島に建てたいという望みを、強く持ちました。その望みをイエズス会の総長に伝え、世界を巡る旅の中で学校建設への支援を要請しました。それに応えてくださったアメリカのカリフォルニア管区の方々の経済的、人的支援もあって、広島学院は創立されました。
1956年4月7日の広島学院開校式には、アルペ神父も臨席し、スピーチをされたそうです。その後も、管区長として何度か来校されているでしょうが、1971年4月には、総長として本校を訪問された記録が残っています。おそらく、アルペ神父にとって広島学院は、世界中のイエズス会学校の中でも特別な思いのある学校の1つだったと思います。
立派な講堂と聖堂が完成しました。だけど、どれだけ立派な器ができても、問われるのはその中身です。すなわち、広島学院という学校であり、君たち生徒一人ひとりです。
この場所には、かつて、広島学院で働き、学校の進むべき方向を身をもって示してくださったイエズス会の先生方が生活をしていた修道院がありました。そのイエズス会士の方々のお名前は、メモリアルホールの石版に記されています。
その跡地に「ペドロ・アルペ記念講堂」が建てられ、入り口には ”Be Men for Others, With Others” の文字が彫られ、館内には多くの聖書の言葉や祈りの言葉が飾られています。「アシジの聖フランシスコ聖堂」もできました。そういった1つ1つが、私たちが進むべき方向をはっきりと示してくれています。
竣工記念というお祝いの機会に、あらためて、「正義の実現を目指して、他者のために他者とともに生きる人間になりなさい」というアルペ神父の教えを、私たちの目標としてしっかりと心に刻まなければならない。そういう決意をもって、この竣工記念式に臨んでください。