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講話

11月10日 朝礼

おはようございます。
 文化祭が終わり、連休も終わり、11月も中旬に入りました。
 この11月は、カトリック教会では亡くなられ方のために特別に祈る「死者の月」とされています。亡くなった方の魂が天国に招かれ、永遠に安らかに憩いますようにと願い、またそう願うことで、亡くなった方が生きている私たちを、より豊かな生き方に導き助けてくださるという信仰をもって、祈りを捧げます。このように、生きている人と亡くなった人が祈りを通して深い関わり合いを持つことができると、教会では教えています。

 この「死者の月」に合わせて、今週の土曜日に広島学院関係物故者追悼式があります。生徒や教職員とそのご家族、卒業生や退職された教職員、そのほか広島学院と直接あるいは間接的に関わりのあった方々の中で、今はこの世を去られた方々を偲び、ご冥福をお祈りする式典です。偲ぶといっても、みんなにとってはほとんど知らない人ばかりかもしれません。でもそういう方々の関わりがあったから、今の広島学院があり、私たちがここで学ぶことができるのだということを、心に留めておかなければなりません。ご冥福を祈ると同時に、こういった方々から受け継いだこの学校をしっかりと次に引き継いでいく決意を新たにし、きちんと受け継いでいけるよう助けを願って祈る式典でもあります。そういう追悼式の意味をよく理解して、亡くなられた方々や来校されるご遺族に失礼がないように、正しい態度で式典に参列してください。

 さて、1年前にも朝礼で話しましたが、追悼式も行われるこの「死者の月」にあたり、死というものを通して生きることについて、特に日頃あまり考えない人も自分なりによく考えてみるといいと思います。私たちはみんないつか必ず死を迎えるときが来る。そんなことはよく分かっているけども、あまりそれについて考えたくはないと言うかもしれません。ですが、死について考えることは、そのときまでをどのように生きるべきかを考えることにつながります。死を迎えるとき、おそらくまだやりたいことが色々とあるのにという無念な気持ちになるかもしれないし、恐怖を感じるかもしれません。それは仕方がないでしょうが、祈りによって無念や恐怖は何とか乗り越えさせてもらうことにして、せめて自分なりによい生き方をしてきたという気持ちで死を迎えたいと、私は思います。生き様が問われるということですが、よりよい生き方ができれば、死を迎えるときの精神的な苦しみは、和らぐような気がします。

 先日の文化祭の新井満さんの講演の中で、今の自分を20代前までさかのぼると、自分につながる父と母は100万人を超えるという話がありました。わずか20代さかのぼるだけでも、100万分の1が欠けたら、私自身は存在しないということです。こういうと、私たちの命は、極めて奇跡的な偶然が重なって今ここに存在しているというふうに考えたくなるかもしれません。だけど、私は、そうは考えません。私たちの命は、創造主といわれる絶対的な存在によって造られた、深い意味のあるものであって、決して偶然に存在しているものではないと思っています。私自身はカトリックの家庭に育ち、何となくそんな雰囲気の中で生きてきたので、そういう思いが自然と自分の中にあるのでしょう。

 私にとっては、生きることを考えるときには、自分も他の人もみんな意味のある存在として与えられた命を生きているということが、前提になっています。そのせっかく与えられた命を無駄にせず、役立てるような生き方が、自分にとってよい生き方だし幸せな生き方だと思う。
 私たちが、“men for others, with others” という生き方をを目標にしているのも、与えられた全ての命をみんな等しく大切にしなければならないという思いがあるからです。みんなも、ときには、このように死というものを通して生きるということについて、自分なりに考えてみてください。

 文化祭が終わってから、廊下には、「叡智」という言葉を掲示してもらっています。校歌にも歌われているように、この学校が、今まで関わってこられた方々からずっと受け継いできたものの1つです。この叡智については、また今度、話をしようと思います。