コンテンツにスキップ

講話

10月11日 朝礼

 おはようございます。
 今日、10月11日は、カレンダーを見ると赤い字で書いてあります。本来は「スポーツの日」で休日ですが、去年と今年はオリンピックの関係で、スポーツの日が7月の後半に移りました。みんなにとっては、休日が1日減って損をしたということになりますが仕方がない。それよりもあと3日で中間試験です。緊張感を持って、しっかりと準備をしてください。
 またこの10月は、カトリック教会では「ロザリオの月」と定められています。ロザリオは、聖母マリアへの祈りを繰り返して唱えるときに使う用具で、これを使ったロザリオの祈りを、特に10月にはよく唱えるように教会は勧めています。これに合わせて、本校でも10月は、毎朝聖堂で祈りの集いを開いています。今朝も、高3の生徒がいい話をしてくれました。ぜひみんなも足を運んで、生徒や先生の話を聞きながら静かなひと時を過ごしてください。

 さて、今朝は「豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」という新約聖書の言葉について、話をしたいと思います。これは、パウロがコリントという町の教会の信徒に書いた手紙の中の言葉で、信徒たちに、エルサレムの教会へ献金をするようにお願いをしている場面に出てきます。そんな場面で「豊かに蒔く人は、刈り入れも豊か」と言われると、「たくさん献金をすれば、それだけいいことがたくさんあります」というようにも聞こえますが、パウロはその後に、「不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい」と言っています。献金の額ではなく、気持ちが大切だということです。
 もっとも、献金と言われても、みんなは自分とは関係のないことのように感じるでしょう。私は、ここでパウロが言っている「蒔く」というのは、「先のことを考えて、今するべきことをする」ことだと解釈すればいいと思っています。

 毎日の生活の中で、好きなことをして今を大いに楽しんだらいい時もありますが、先のことも考えて、今、すべきことをしなければならない時もあります。豊かに蒔くべき時です。だけどそんな時でも、先のことは考えず、今の楽しさを追い求めてしまうことがあります。或いは、人に言われて渋々取り掛かかることもよくあります。そして、そういった場合はたいてい後になって「あの時こうしておけばよかった」というようなことになります。みんなも経験があるでしょう。刈り入れは、豊かではなかったということです。種を蒔くべきときには、少々の苦労や困難があっても、パウロの言葉通り、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りに行いたいものです。

 もう1つ付け加えておくと、私はこの聖書の言葉を聞くと、ちょうど今の季節に相応しい日本の諺、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」が思い浮かんできます。稲は成長して実がつくと、その重みで稲穂の部分が垂れ下がってくるように、人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になるということのたとえです。
 若い緑色の稲は、まっすぐに天に向かってすくすくと成長します。今のみんなは、そういう段階でしょう。たくさんのことを学び、経験し、「生活のしおり」にあるように、研鑽と修養に励んでもらいたい。そうするとやがて、学問や教養が深まり、品性が養われ、謙虚で思い遣りのある心も才能も豊かな人間へと成長する、これがこの学校が目指す「刈り入れも豊か」ということだと私は思います。
 この「豊かに蒔く人は、刈り入れも豊か」という言葉を、この後しばらく廊下に掲げておきます。

 私の話は以上ですが、この後、副校長の佐久間先生から健康観察についての話があります。